目を閉じられない白昼夢:『ミッドサマー』

近年、カルト的に話題になっている映画を比較的早めに観ておいてアーリーアダプター面する傾向があるな、と自分を省みていたりするんですが、本作もまさにそうですね。アリ・アスターなんて監督知りませんでしたし、実際『ヘレディタリー』も観ました、なんて人そんなにいないと思うんですよね。きっと、世の中の大多数が自分のような「エセ俄かアスター信者」なんですよ。マーケティング的にもそういうトコ突いてきてるな、小狡いな、見事にハメられてるな、と思うんですけど、気になるんですもん。なにがコワイのよ、どうコワイのよと。で、観に行っちゃいました。観たこと自体は後悔してませんが、結構長きにわたっていろんな場面がフラッシュバックしそうで怖いです。実際に、結構経った今でもことあるごとにさまざまな場面が脳内で再生されます。ヤバい、かなりメンタル浸食されたなと…。

あらすじは方々で紹介されてますから割愛します。その上で、ネタバレなしでレビューしてみませす。まず、制作側で謳っている「フェスティバルスリラー」という上手いことつけた感のあるジャンル名ですが、私がもっと適正な「コミューンホラー」に更新します。確かに祭りが重要なモチーフにはなっていますが、怖さの本質はコミューンです。これまた方々でこの村を「カルト」と評しているのを見ますが、彼らに意識的な悪巧みといった認識はなく、あくまで古来よりの風習を守っているだけ、という公正明大感があるので、ちょっと違うのかなと。とはいえ、村全体の企みが「風習」で済まされる域を超えているのでまずは「コミューン」、そして表出している事象がこれもスリラーなんて域を思い切り振り切っちゃってるので「ホラー」です。しかし、カルトとの評価も決して間違ってはおらず、同調による融和(恋人のアレを見ちゃって取り乱すダニーを、若い女子たちが取り囲んで一緒に泣き叫ぶシーンとかまさに)、個の喪失(コミューンの永続のために個のアイデンティティはなくなっているように見受けられる)など、カルトの要件は十分に満たしていると思われます。

ともあれ、煌々と照る陽の光の中であんだけのゴア、ショッキングシーンの数々。しかも皆笑顔、「なんかオカシイですか? ワレワレの村ではいっつもコーダヨ」って。その罪のなさが滅茶苦茶怖いんだって! これが、見た目に未開の民族だったらまぁ納得しちゃうんでしょうが、爽やかな白い衣装をまとった彼らは、あくまでマトモな「田舎に住んでる朴訥とした人」に見えるんですもん。そんな人たちが超過激な姥捨て山セレモニーだの、先祖の木にションベンした奴にエグいお仕置きだの、血が濃くなり過ぎるデメリットはちゃんと判っていて、たまに外部から体よく種だけもらっちゃおうみたいなことやってるんですから。

この傍目にオカシイ世界観に、最後主人公が順応してしまうというプロットは、確かに「よくある怖さ」かなと思うんですよね。例えば安部公房『砂の女』とか、映画『ローズマリーの赤ちゃん』などもそうです(もっとズバリな作品があった気がするんですが、思い出せない…)。しかしながら、「明るくて怖い」という一見パラドクサルなプロットというのは、すごく新鮮で、かつえらくしんどいもんだなと。以前『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』という、ホラー映画史的にはエポックメイキングとされる作品(自分には「意味不明な駄作」としか思えないんですが)で「目を開けているのが怖い、でも閉じるのも怖い」的なキャッチコピーがありましたが、本作の舞台は白夜の村ということもあり、観ている側は「目を閉じない限り全部見えちゃう」のです。しかも巧いのは、そうした白い世界で「基本全部見せちゃうよ」としつつも、ちょっとハラハラさせたい時には屋内を使って闇を作ったり、あるはずのない場所にあるはずのないモノをさりげなく置いたり(植物のように土から伸びたアレとか、背中からビローンと伸びたアレとか…)、のどかな風景にかすかに絶叫が響いたりとか。「怖いはずがない前提」で「怖さがジワる」んですわ。いやほんと趣味が悪い。

あと、まぁこれも使い古された「本当に怖いのは人間」って言葉ですが、本作で怖いのは特定の人物ではなく「個を失った集団」である、というのが特徴ですね。動いたり話したりしている一人ひとりは一見個性がありそうなんですが、決められた期間を過ぎたら没することを、節理として一律遺伝子に刷り込まれているような集団ってもうそれだけで恐怖ですよ。また、画面に子供たちはチラチラ映るんですが、「家族」が描かれることが一切ないのは留意すべき点です。村の永続のためにアレまで徹底管理されてるんじゃ、まぁそうでしょうね。アレをセレモニーとして行った後で「提供元」はああいう処遇って、凄絶過ぎ。というか、ここには「愛はない」のね、というのがまた恐怖。長らくコミューン外に「出張」していたペレだけが、愛を匂わせるというのがある意味象徴的です。

そして、この村を「構成」しているおぞましきルールの数々が、「昔からそう決まっている」と言われるから「…はぁ、そうなんですか。だいぶ変わってるけど、まぁ納得しときますわ」となっちゃいますが(実際、コミューン外から来たダニーたちはそうなった)、ちょっと冷静に考えれば、この現代社会においては気狂い沙汰です。なんだよ「9人の●●」って。「18年ごとに春夏秋冬」ってシステマテックだなぁと思わせといて、その後の無茶さ加減たるや。そして、そうした狂ったルールに村人たちがまるで恐怖を感じていないことが最も怖いんですわ。しかもここでまた巧いなと思うのは、こうした「昔からのルール」が結構綻んでるところ。身内で●●してたら見た目にヤバい子が生まれちゃったんで、この子を神話の伝承者役にしてなんとなく意味があるようにしちゃおうとか、●●に志願した村人に「恐怖を感じない」とヘンなブツを舐めさせておきながら、いざアレが回ったらめっちゃ苦しんどるやん(あそこはさすがに苦笑しましたわ…)とか。

さて、ネタバレなしと言いながらかなり長くなってしまいましたが、最後。監督が本作を「ある意味ハッピーエンド」と語ったようですが、まぁ最後まで観りゃ誰でもそれくらいの機微は解るでしょう。で、全体について自分が気が付いたのは、本作が実は「夢オチ」にできてしまうという、壮大な仕掛けを持っているという点です(「のび太植物人間」説に近い発想かも知れませんが…)。村に入って最初に一発キメたところから以降の悪夢がすべて夢だった、というのがパターン1。スウェーデン行き自体が夢だった、がパターン2。さらに大胆には、そもそも冒頭の凄惨な事件もダニーの心神耗弱がもたらした幻だったというのがパターン3。他にも夢の入口はあるかも知れません。ともあれ、なんとかして夢オチにしたくなるほどトラウマになる、というのは間違いないでしょう。

映画『ミッドサマー』公式サイト
https://www.phantom-film.com/midsommar/

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